東京新聞|戦後日本 雑誌の興亡:植田康夫
東京新聞2008年(平成20年)11月20日(木曜日)の夕刊なのだが、
植田康夫氏が寄稿をした「戦後日本 雑誌の興亡」に祖父の名があり、
年明けに実家に戻った際、亡くなった祖父に久々に会えた気がした。
メモとして記事を掲載させていただこうと思う。
【出典:引用】
東京新聞2008年11月20日夕刊「戦後日本 雑誌の興亡」
東京新聞:http://www.tokyo-np.co.jp/
「平凡」のために集まった人々
岩堀喜之助からの電報で、清水達夫が岩堀を訪ねた時、既に雑誌の題名が決まっていたことと、用紙も確保されていたのは前回で述べたような事情によるのだが、さらに岩堀は発行資金の用意もしていた。そこで、岩堀と清水の間には、こんな会話が続けられたと、清水の『二人で一人の物語』にある。
「それでなァ清水さん、貴公のほかに仲間を誘ってある。翼賛会にいた伊藤の進ちゃんと、オレの中国の仲間の菅原と菊池というのと仲間はオレもいれて五人だよ」
「どこで編集するの・・・」
「とりあえず、陸軍画報の部屋をしばらく使わせてもらうんだ、あの部屋もいまは中山さんの知りあいで、宮前さんという人の事務所になっているんだが、当分の間一部を使わせてもらうことに話はついている」
「うん、あすこならいい場所だ、銀座だから・・・」
岩堀が編集室を銀座に設けたことに清水が同意すると、岩堀は「それで明日、あすこへみんな呼んであるから貴公も来てくれ、こまかいことはそれからだ・・・」と言った。清水は「わかった。明日、必ず行くよ」と約束し、岩堀としっかり手を握り合った。
清水の著書によれば、翌日、清水は銀座八丁目の裏通りにある湯浅ビルの四階にある陸軍画報社を訪ねた。しかし、その時はもう宮前猛事務所という表札がかかげられていた。宮前と中山正男は同じ北海道の出身で旧知の間柄だったので、宮前は岩堀の呼びかけで集まってきたメンバーに対して好意的だった。岩堀たちの部屋が出来るまで遠慮なく使っていい、と宮前は言った。
部屋に集まったのは、岩堀、清水のほかに、菅原幸基(さちもと)と菊池正成(まさなり)、伊藤進一郎で、清水は菅原と菊池とは初対面であった。伊藤は、大政翼賛会で一緒だったし、電通時代から広告デザイナーとして知っていた。集まった五人の年齢は一番年上が岩堀、次が清水と伊藤、一番若いのが菅原であった。
マガジンハウスの社史『創造の四十年』によると、この時の会議では、岩堀から用紙と雑誌の題名についての経過説明があり、編集長には全員一致で清水が推され、次に会社は合資会社組織とし、代表は岩堀とすることが決められた。そして社名は家主の宮前の提案で「凡人社」と決まった。「平凡」という雑誌を凡人が集まってつくるのだから、という理由だったが、岩堀以下、皆が賛成した。
(敬称略)
原文まま
今となっては祖父からは事の詳細は聞けないが
生前雑誌社を作ったことや、日本で初めて銀座でファッションショーを行った話、男性向けファッション誌で挿絵を描いていたことなど、日常会話程度で聞いていたが、 当時の方々が回想し名前を挙げてもらえることで、その会話の裏側が垣間見えて面白い。
残念ながら、文中に出てくる
清水達夫著:『二人で一人の物語』
は新品では手に入らなくなってしまったようで、
マガジンハウスの社史『創造の四十年』
はそもそも販売されていないだろうから手に入らずといった状況だが、
次回実家に戻った際に祖父の書斎と本棚を探索してみようと思う。
現在雑誌が不振だと騒がれている中、祖父の目にはどのように映ってきたのか、そして現在筆者が関わっているWebという媒体はどのように映るのか。
そんな話もしてみたかったなと、今になって思う。
記事自体は2008年の11月で、実家に戻るまで全く知らなかったが、正月に戻った際に読めたことも、なんだか不思議な気分になれたので、紹介。
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